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真珠島の歴史

世界初!養殖真珠の誕生

 安政5(1858)年、鳥羽のうどん屋「阿波幸」の長男として生まれた幸吉は、幼い頃より家業を手伝うかたわら青物や海産物を商っていました。
 商人として様々な経験を積み、二十歳になるのを機に家督を継ぐにことになった幸吉は、開国間もない東京・横浜の視察旅行に出ました。
 この旅で幸吉は真珠との運命的な出会いを果たします。

 横浜で立ち寄った外国人商館で、ケシ粒ほどの伊勢志摩産真珠が驚くほどの高値で取引されているのを目の当たりにしたのを機に、いつしか真珠を商うことを夢見るようになったのです。夢の実現に向けて一層商売に打ち込んだ幸吉は、周囲の信用を得て念願の真珠仲買人となることができました。

 しかしその頃、天然真珠採取を目的とした濫獲が進み、伊勢志摩のアコヤ貝は絶滅寸前でした。
 「このままでは、アコヤ貝がいなくなってしまう。」と考えた幸吉は、アコヤ貝の増殖に着手します。

 そのとき力を貸してくれたのが、津市出身の大日本水産会幹事長・柳(やなぎ)楢悦(ならよし)氏です。柳氏のお陰で海の使用を許可された幸吉は、海底に打った杭に縄をはり、そこに結わえた瓦や木片に稚貝を付着させるというアイディアを実践します。

 実験開始から約3か月、稚貝が付着しているのが確認され、実験は成功。その後もアコヤ貝の数は順調に増えていきました。
 貝が増えれば採れる真珠もそれに比例すると考えていた幸吉でしたが、期待していたほど多くの真珠は得られませんでした。

 そんな時、柳氏から「動物学の権威で真珠研究の第一人者でもある東京帝国大学教授・箕作(みつくり)佳吉(かきち)理学博士に紹介したい」という手紙が届きました。
 幸吉は早速博士の研究所を訪ね、天然の真珠が生まれるプロセスを学びます。それは、「なんらかのきっかけで貝の中に異物が入り込み、それが吐き出されずに長い時間貝の体内に留まれば、その異物を包むようにして真珠質が形成され真珠になる。」というものでした。
 しかも、「誰も成功したことはないが、理論上は人の手によってできるはずだ。」というのです。
 その言葉は、幸吉の心に火をつけました。「誰も成し遂げたことのない仕事こそ、やってみる価値がある。なんとしても自分の手で真珠をつくってみせる。」と決意を固めたのでした。

 東京から戻った幸吉は早速、英虞湾(あごわん)で真珠養殖の実験に取り掛かります。
 ガラス玉や陶器のかけらなど、思いつく限り色々なものを貝に入れ、数か月後に開いてみるという作業を何度も繰り返しておこないました。
 しかし、たいていは吐き出されてしまい、まれに貝の体内に残っていても真珠はできていませんでした。
 何の成果もなく時間だけが過ぎ、資金繰りにも苦しむ幸吉の様子をみて、周囲の人々は「悪い男ではないが、真珠なんぞに憑りつかれてしまって…。気の毒に。」などと陰口を言うようになりました。

 そんな周りの冷たい視線にも負けずに実験を続ける幸吉を、最大の試練が襲います。大規模な“赤潮”が発生し、英虞湾の貝五千個が全滅してしまったのです。
 「もうだめだ、諦めよう…」そう思い始めていた幸吉をもう一度立ち上がらせたのは、彼を支え続けた最愛の妻・うめの一言でした。
 「まだ、相島(おじま)の貝が残っています。」
 用心深い幸吉は何かあった時のためにと、鳥羽の相島でも千個程の貝を育てていました。
 幸吉は被害を免れたわずかな貝で、最後のチャンスに懸けることにしました。

 そして実験開始から3年余り経った明治26(1893)年7月11日、運命の時が訪れます。
 その日もうめと一緒に数か月前に異物を入れた貝を引き上げ、真珠ができているかどうか確認していました。
 すると突然、「あ、あなたっ!!」と叫ぶうめの声が静寂を破ります。慌てて駆け寄った幸吉にうめが一つの貝を差し出しました。
 その貝の内側には、確かに幸吉の手で入れられた異物を包むようにして半円形の真珠ができていたのです。
 それは、これまで世界の誰も成功することがなかった養殖真珠誕生の瞬間でした。
 その後も多くの人の協力を得ながら努力を重ね、幸吉が人生のすべてをかけて完成させた養殖真珠は世界中の女性を輝かせていきました。

養殖真珠島誕生の地・ミキモト真珠島
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