知る 学ぶ 楽しむ
真珠王からのメッセージ 海女 パールミュージアムコレクション 入場料金 チケット情報 営業案内 アクセス 真珠島のパワースポット 島内マップ よくあるご質問 ホームに戻る
HOME > 学ぶ > 真珠島の歴史 > 世界初!養殖真珠の誕生 > 養殖真珠誕生の地・ミキモト真珠島

真珠島の歴史

養殖真珠誕生の地・ミキモト真珠島

 真珠事業が日本を代表する産業に成長する中で、幸吉は政財界の重鎮との親交を深めていきました。

 中でも、「日本近代経済の父」と呼ばれた澁澤栄一翁には多大な影響を受け、翁が提唱する「民間外交」にも力を注ぎました。
 その最大のプロジェクトこそが、養殖真珠が世界で初めて生まれた場所“相島”の整備だったのです。
 この計画が幸吉の口から初めて発せられたのは、明治30年の大隈重信候との会談中でした。
 「外国には水晶宮なるものがあると聞きます。私は真珠宮をつくり、海女が真珠貝を採取する様子をはじめ、真珠養殖のすべてが一目瞭然にわかる仕掛けを施したいと考えています。」
と時の大政治家を前に語ったのです。

 それから約30年後の大正15(1926)年、1年近くにわたる欧米視察に出た幸吉は、民間レベルにおける諸外国との交流の重要性をあらためて痛感し、帰国するやいなや相島の整備に取り掛かるのでした。

 そして昭和4(1939)年島内整備が完了し、幸吉自ら「真珠ヶ島」と命名。養殖真珠誕生の地の公開はすぐに評判となり、各国の王族、貴族をはじめ政治家、大公使など、来日したほとんどの外国人が訪れたといわれています。

 ところが、昭和18(1943)年には第二次世界大戦激化により、島を軍部へ提供することになります。
 終戦後の島は荒れ果て、とうていお客様をお迎えすることなどできない状態になっていました。

 そこで昭和25(1950)年3月、幸吉は真珠ヶ島の再整備に着手。同年5月25日、米第8軍司令官のウォーカー中将夫妻を迎えて開島式が催されました。
 開島したとはいえ、この頃はまだ連合軍関係者しか入場できず、観光客向けの施設ではありませんでした。

 しかし、戦後の混乱も収束に向かい、日本人も行楽にでかけるゆとりが生まれ始めると、各方面から真珠ヶ島の一般開放を望む声が寄せられました。
 とりわけ、学校関係者から「日本の将来を担う子供たちにぜひ真珠ヶ島を見せてほしい。」との強い要望があり、幸吉は広く開放することを決断したのです。

 そして昭和26(1951)年3月12日に一般開島し、「観光・産業・教育」を三位一体とした世界的にも類を見ない観光施設、ミキモト真珠島の新しい歴史が始まったのでした。
 それから六十余年、今もなお国際観光文化都市・鳥羽を訪れる多くの方に「海の宝石・真珠」の故郷として愛され続けています。

page top
  • 御木本幸吉記念館
  • 真珠博物館
  • 館長のページ