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42.神苑会のこと

 鳥羽市が推進している人材育成講座・地球塾で話す必要があって、神苑会のことを調べているうちに興味深い事柄にいくつも出会いました。神苑会といっても今では地元の伊勢ですら、その名前を聞くことは稀なように思います。ですが、現在市民が利用している御幸道路や徴古館農業館、あるいは外宮の勾玉池、内宮宇治橋付近の庭園、二見の賓日館など、多くの資産がこの明治時代の財団法人の手になるものだったことは記憶しておくべきでしょう。

 この会の提唱者は太田小三郎という人物です。『伊勢度会人物史』から要約すると、豊前大分の人で、若くして広瀬淡窓の塾に学び、京都に出、明治5年に用務で鳥羽へ来る途中神宮に参拝したが、その荒廃の様子に驚き、伊勢に居を定めて同士を募り、明治19年に会を興したという。太田小三郎が参拝した当時の内宮は、宇治橋を渡ったところまで人家が立ち並んでいたといいますから、今ではちょっと想像がつかない光景です。火災の防止と景観の整備のために神宮周辺人家の撤去を行い、外宮内宮の中間地点倉田山を開発して当初は神殿、のちに計画を変更して博物館を作るという目的のもと、様々な人々が事業にかかわりを見せ、御木本幸吉もそのひとりでした。会の発足当時はまだ真珠養殖は成功しておらず、したがって協力どころの話ではなかったのですが、明治44年の会の解散までの御木本の寄付金額は『神苑会史料』によれば四千十円。これは三井八郎右衛門の一万五百円、岩崎久弥の五千円に次ぐ額でした。三井、三菱、御木本を「三ミ」と称したという話が残っていますが、この件で見るかぎりまんざらホラ話でもありません。

 この神苑会から要請を受けて農業館の設立に尽力したのが田中芳男。大日本水産会の幹事として、端緒についたばかりの幸吉の事業に援助を惜しまなかった人物で、柳楢悦と並ぶ恩人です。会の総裁の有栖川宮熾仁親王、有栖川宮威仁親王、会頭を務めた薩摩の吉井友実や花房義質、徴古館を設計した片山東熊、市川之雄、地元の大岩芳逸ら、今は静まり返った倉田山に、かつて多くの志ある人々が集い、伊勢のあるべきかたちを夢見て語らった。これもまた小さな「坂の上の雲」ではないかと思うのですが。いかがでしょうか。

徴古館入り口にある神苑会碑。文と書は帝室博物館総長で書家の股野琢

徴古館入り口にある神苑会碑。
文と書は帝室博物館総長で書家の股野琢



御幸道路沿いの太田小三郎紀功碑

御幸道路沿いの
太田小三郎紀功碑

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