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59.写真の整理

 博物館が収蔵している写真資料で登録台帳に記載されているのは今のところ1,000のオーダーですが、実際にはその何倍も未整理のものがあって、調査を続行しているところです。確認できる一番古い写真は明治23年、第三回内国勧業博覧会の会場を写したもので、丈夫なカードに焼きつけられています。会場のアーチの前に腕組みをした人物がいるのですが、残念ながら顔までははっきり解りません。この博覧会開催時に御木本幸吉が何人かと収まった記念写真があって、これが恐らく幸吉を撮った一番古い画像と思われます(写真1)。

 幸吉はこの博覧会に天然真珠と真珠貝などを出品して、それが東京帝国大学の箕作佳吉博士の目に留まり真珠養殖の第一歩を踏み出します。幸吉の人生の転機といえる重要な博覧会でした。写っているのは一緒に出品した同じ三重県の仲間なのでしょうか、裏には幸吉の伝記に出てくる四日市の川村又助の名前が記入されています。この頃の写真は画面下部、あるいは裏面に写真師の名前が入っているので、そこから多くの情報を得ることが出来ます。この集合写真も裏のスタンプから鴨下松渓という写真師の手によるものであることがわかりました。

 鴨下松渓は江戸の生まれで、はじめ菊池容斎の高弟了斎門下で日本画を学び、後に写真に転じた人です。この写真は最近になって未整理資料の中から取り出され、それまで幸吉の一番古い写真は単独で写されたもの(写真2)でしたが、比較すると表情、衣装ともに同一であることがわかります。同一の原版から加工したものか、あるいは別テイクの可能性もありますが、年代と状況がはっきりしたことは大きな収穫でした。

 幸吉の写真好きは以前この欄で紹介したこともありますが、仕事で上京する機会にいろいろな写真スタジオを訪れて被写体となったようで、たとえば山本誠陽、丸木利陽、小川一真、二見朝隈など、著名な写真師の名前の入ったポートレートが残っています。御木本真珠店を東京に開いてからは店員と一緒に写真に収まることも多く(写真3)、中でも二見朝隈の写真館がお気に入りのようでした。というのも、このスタジオは明治35年の「銀座附近一覧図」で見ると御木本真珠店の隣に位置していたので、なにか行事があるたびに気軽に撮影したのでしょう。まだ、現在の四丁目に出る前、元数奇屋町(晴海通りとガス燈通り新橋寄りの角)に店があった頃のことです。

 他にも日比谷の成田写真館、神戸の市田写真、鳥羽では那須写真、岡田写真、志摩の中村写真といった名前の入ったものが多数残されており、時代と状況を特定する手がかりとなります。

 調べる側としては、こういう写真資料をたくさん残してくれたことに感謝しなくてはなりませんが、時々は同一の写真が束になってあちこちから出てくることもあって、処置に困ったりもします。画像のデジタル化にはまだ着手できない現状で、そうしたところで元資料はきちんと永久保存しなくてはならず、写真や文書の詰まった箱を開けて整理分類すれば保存ボックスが別になって占有空間は増えるため、整理をした分だけ収蔵スペースが狭くなるという奇妙な事態がおこります。パンドラの箱はあといくつあるのだろう。

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