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89. 杉山先生のこと

  真珠博物館の誕生にあたって大きな功績のあったのは杉山二郎先生である。功績、というよりも先生との出会いがなければ博物館は存在していなかったかも知れません。
 話は昭和58年に遡る。この年(1983年)は御木本幸吉が半円真珠の成功をみてから90周年にあたり、グループ各社で記念行事が行われました。銀座ではミキモトホールを使って展覧会が開催された。それは「シルクロードと真珠展」というタイトルで、真珠の文様である連珠をあしらった遺物を中心に、東西の交易と真珠への憧れを探ろうというもので、その監修にあたったのが東京国立博物館の東洋考古室長杉山二郎先生だった。
 この展覧会はその後、鳥羽に巡回し、真珠島の真珠特別館で開催されました。杉山先生が真珠島を訪れるのはこの時が初めてでしたが、館内を一巡して、ここに真珠の博物館を作り、視聴覚を通じて真珠文化史を楽しみながら観てもらう場所として活用すべきと力説された。当時はパールホールと称する、真珠の加工工程を紹介する施設が中心で、先生の専門である文化史に触れた展示はなく、工場見学のようだと先生は思われたのでしょう。ご自身は真珠の専門ではないけれど、今回の展示で使った連珠文の遺品を貸すこともできるし、骨董商を通じて真珠の装身具を購入する道筋をつけることもできると教示された。社内で博物館建設の機運が高まり、チームの結成が行われて、博物館作りが始まりました。
 昭和60年9月1日開館。当初は収蔵品としてもさしたる資料はなく、二階の展示室は先生のご厚意による連珠文や、真珠の光沢を宿した銀化ガラス、陸のシルクロードと海のシルクロードをイメージさせるオブジェなどで展示を構成しました。今から思うと、真珠博物館と銘打ちながら、装身具の類があまりに少なく、拍子抜けした来客もあったことと推測します。開館後しばらくはそのような状態だったが、やはり真珠のついたジュエリーが必要と悟り、オークションや国内外のディーラーを通じての収集活動を開始、ちょうど日本経済が活気のあった時代で、オークション市場にも良い物件が出て、この頃に求めた品が現在の博物館の基礎を成しています。
 博物館の準備をしていた頃、先生の言葉で今もわすれられないのは、「博物館の展示の文章は大勢の人に読まれる。俺の本なんざ、せいぜい多くても数千の読者しかいないが、ここは何十万という来客が読んでくれる。書き手冥利に尽きるね」というものです。もちろん、その文章の責任の重さと社会に対する影響の大きさを言下に忍ばせた忠告で、不肖の弟子として常に座右に置いて服用しています。
 先生は小柄ではあったけれど、健啖家にして、斗酒辞さずという方でした。鳥羽にお越しの際は割烹「小えん」がお気に入りで、宴は談論風発、話題は神羅万象に渡り、深更に及ぶこともしばしば。また、こちらが上京の時は鶯谷駅前の蕎麦「公望荘」か、池之端のうなぎ「伊豆栄」に招かれ、相伴に預かったことを懐かしく思い出す。ご自身は東洋美術のご専門だったが、洋の東西を問わず、あらゆる事象に通暁され、ひとつ質問の石を投じれば、その答えは波のように何層にもなって返ってくる。万能の先生でした。
 東京国立博物館を退官の後は長岡技術科学大学、京都の仏教大学、高輪の仏教大学院大学教授を歴任された。お付き合いはその頃も続き、京都では祇園祭をご一緒に見る機会もいただいた。毎年のように鳥羽へのご来遊を楽しみにしておられたが、最晩年の夏、お誘いの電話をすると、常には似合わぬ声で倦怠を訴えられ、冬の初めに逝去。それが最後のご案内となった。
 さて、9月1日から真珠博物館開館30周年を記念して、今までの歩みをご紹介する小さな展覧会を開催しています。パネルでの紹介が主ですが、杉山先生の著作も家の書架から持ち出して、その一部を展示しました。先生は読者が少ないといわれたけれど、本はこうして時代を越えて行く。それに比べれば展示の解説文は更新されてしまうので長く残ることはない。やはり本のほうが宜しいでしょうと、今の私ならお答えするのだが。
  


 

杉山先生と30代の筆者

 

 

 

先生の著作物。随筆集『風鐸』がお気に入りだった

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