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107. 阿波幸異聞

  これを書いている現在、図書検索のWebcat plus minusに故障中の表示が出ている。このデータベースは古書店や図書館にリンクしているので、図書を探して実物に至る最短かつ最良の手段。今すぐ何かを調べたいわけではないが、早い目の復旧を願うばかり。
 さて、そのデータベースから、今回は御木本幸吉を取り上げた本をご紹介。先日、検索を実行した際は225件のリストが掲出された。ちなみに最新の図書は『三重学』(朴恵淑編著、風媒社、2017年)で、御木本幸吉の部分を担当したのは不肖、私です。
 では、一番古いのは何か。リスト上で最初に出るのは御木本幸吉が発行人となった『山陰落栗』(1906年)という書物。幸吉の真珠貝増殖事業を支援した大日本水産会幹事長・柳楢悦の遺稿集で、稀覯本(館には収蔵)。その次が1907(明治40)年に出た『東京模範商工品録』なる、おそらく商工名鑑のような一冊で、御木本真珠店が紹介されているのではないかと想像する。その後に『天才乎人才乎:現代実業家月旦』(渡辺慎治、東京堂、1908年)が出ている。古本屋のサイトに移行、在庫している書店があったので、即、入手。著者は報知新聞の記者で、「元来二三年前中央新聞紙上に連載せしものを其の儘刊行」したという。再録だが、幸吉の業績を紹介した初期の本として興味深い。生い立ちから養殖の苦労、緑綬褒章を受けるまでを8ページに要約したものなので、紋切り型に終始するのは止むを得ないとしても、今日の知識とはずいぶん異なる内容に戸惑う。たとえば、幸吉は漁夫の家に生まれ、年少にして魚類の行商を行い、やや長じるに及んで饂飩屋を開業した、とはどこから来た話だろう。しかも半円真珠の成功には触れず、真円真珠の発明も曖昧な表現。御木本真珠店のメディア担当(いたのか)はこれを読んで何もいわなかったのかな。
 こういう記述の異同は、その後出版された伝記にしばしば見られる。生家の部分に限ってみても、大正6年に刊行された『発明家物語』(大日本工業教育会)では、幸吉の家は「代々蕎麦屋を営んでいて、町ではなかなかの旧家であり」、幸吉は「何不足なく育って、幼少の時から父の家業を助けていた」という。が、蕎麦屋と饂飩屋では印象が違うし、裕福な旧家の子供が家業の手伝いをするのも変だ。昭和5年に発行された『新人国記 名士の少年時代-中部編-』(報知新聞社編、平凡社)の「波止場近くに荒くれ男の舟師、人夫を相手にウドン、ソバを渡世している阿波幸」という一節からは、殺伐とした不穏な情景が浮かぶ。ついでに同書の後段、外国船に売り込みを企てる場面の相手は「露国の軍艦シベリア艦」で、「黒鷲の旗を靡かせながら鳥羽湊に碇を投げた」とあり、イギリスの測量船シルヴィア号のはずがロシアの軍艦になっている。昭和6年の野沢嘉哉『運鈍根で行く』(万里閣)では、幸吉の生家は小さな饂飩屋で、「十一、二の時分にはもう手車を引いて、うどんやうどん粉を売って歩いた」と、行商のように描かれる。本人存命中だ、聞き取りをしたのか。
 昭和16年、北垣恭次郎『文化恩人と偉業』の幸吉伝になると「代々、阿波幸という饂飩屋を営み、小麦粉及び饂飩の製造販売を業としていた」とあり、翌、昭和17年、間々田隆『御木本幸吉』も同様に饂飩屋と、今日、伝えられているかたちに収斂してくる。時期的に古い方がより事実に近いように思いたくなるが、どうもそうとばかりも言えないようだ。
 (Webcatは復旧しました。よかった。)

 

 

 

 

 

 

 

『天才乎人才乎:現代実業家月旦』

 

   『発明家物語』

 

   『御木本幸吉』

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