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140. 師匠

 荒俣宏さんの自伝『妖怪少年の日々』を読み始めた。二段組で467ページ。一気に飛ばすのはもったいないので少しずつ楽しんでいる。荒俣さんに初めてお目にかかったのは雑誌『ブルータス』の取材で来館された時だった。1991年9月のことだ。御木本幸吉が収集した恵比寿の像を取り上げて商売繁盛の秘訣を探ろうとしたもので、学芸員だった頃のコメントが取り上げられている。マガジンハウスの『ビジネス裏極意』という本に収録されているが、すでに絶版か。
 その後、1999年の著書『どおまん・せいまん奇談』では実名で登場することになった。これは鳥羽が舞台となって起こる事件で、怪人・目崎博士に操られて悪事の片棒を担ぐ情けない学芸員の役を与えられた。登場する多くは鳥羽に実在の人物名で、フィクションとはわかっているものの、自分と同名の役者の言動にははらはらさせられる。後日『絶の島事件』として角川ホラー文庫に加えられたが、幸い、あまり話題とはならなかったようだ。
 自伝で荒俣さんは師匠道楽を自称されている。幼少時の金魚の飼育から始まり、博物学や書籍収集など、何人もの師匠に出会ってこられたという。その師匠のひとり平井呈一は怪奇小説の紹介者として著名な英文学者で、小泉八雲の作品や『吸血鬼ドラキュラ』、『吸血鬼カーミラ』、『アーサー・マッケン作品集成』、文語体での『おとらんと城奇談』など数多くの訳業で知られる。近寄りがたい印象だが、凄い師匠に師事したものだ。
 師事の経緯を読んでいて納得したことがある。東京上野の「うさぎや」はどら焼きの名店として隠れもないが、その看板(包装紙も)の文字が河東碧梧桐の手によるもので、前々から気になっていた。俳人として知られる碧梧桐は、中村不折と並ぶ書の奇才である。画家であり書家であった不折と興した「龍眠会」という書の団体には、「上手に文字を書こうとするものは退会を命ず」という会則があり、通常、学校で教えるような、整った唐代の楷書を無視していた。会員の作品は普通に見れば奇妙、あるいは稚拙と映る書体だが、人目を捉えて離さないことでは他に類がない。不折の揮毫した文字は商業美術に多用され、例えば清酒日本盛や新宿中村屋の題字がそうだ。今風にいえば独自のフォントを開発したというところだろうか。では、碧梧桐がどうしてうさぎやの看板を手がけたのか。荒俣さんは、碧梧桐は平井呈一の俳句の師匠で、うさぎやのご主人は平井呈一の兄にあたる、と種明かしをしてくれた。なるほど、そういうご縁があったのか。
 当方、師匠道楽の趣味はないが、記憶に残る先達はいる。大学では碌な勉強をせず、会社務めに入ってから何人もの先生といえる人に教えをいただいた。この欄で前に紹介した杉山二郎さんは筆頭格だが、多くは物故され、寂しい限りだ。私淑していた先生方もここ数年で次々と鬼籍に入られた。
 けれども、特に技芸分野での師匠は必ずしも年上ばかりとは限らない。三十代の頃始めたピアノレッスンの先生はすでに年下だったし、書の師匠、茶の若師匠、地唄三味線の師匠と、芸事の先生はことごとく年下だ。学びだす年齢が遅かったから、こういうめぐり合わせになったのだろうが、考えてみると、いわゆるカルチャー教室の先生と生徒の関係はたいていこういう風になっているのではないか。定年退職後に何かお稽古を、となれば、やむを得ない。もっとも、落語に出てくる浄瑠璃のお師匠さんはたいてい妙齢のご婦人で、弟子はお稽古半分、下心半分といったところだから、年若い師匠に年配の弟子という組み合わせは今に始まったことでもないようだ。

(2021年4月30日)

 

博物館内「矢車」の展示の前で(1991年)

 

『どおまん・せいまん奇談』(1999年)

 

 

サイン本

 

 

 

 

 

 

 

 

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