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143. 高﨑達之助と幸吉

 『鳥羽パノラマ幻燈館』は開幕から三ヶ月。ご来場の、特に地元の方々は昔の風景を前にして思い出話に花を咲かせ、楽しんでおられるようだ。何しろ百年も前の地図や絵葉書なので、色々と発見があって当然だが、たとえば、「樋の山青嵐・赤崎帰帆」のパノラマ写真に「東洋水産会社」という表記を見て、「マルちゃん」の会社が鳥羽にあったのか、と驚く方がある。少し説明しておこう。
 これは明治39(1906)年、石原円吉が設立した缶詰製造会社で、今日盛業のあの食品メーカーではない。石原円吉翁(初代)は明治10年志摩の和具に生まれ、成人の後は鳥羽志摩の水産振興に情熱を傾けた偉人で、翁の精神は二代目円吉、孫の石原義剛と受け継がれ、今は「鳥羽市立海の博物館」に結実している。その東洋水産株式会社に技師として就職したのが、水産講習所を終えたばかりの高﨑達之助だった。高﨑は明治18年、大阪高槻の生まれで、中学校の頃、教師に水産の重要性を説かれて水産講習所入学を選んだという熱血漢だ。
 石原円吉はさまざまな水産物の缶詰加工を試行し、高碕が入社した頃は伊勢湾で獲れるイワシの缶詰(オイル・サーディン)をアメリカに向けて輸出していたが、売上は伸びなかった。というのも中身の見えない缶詰はラベルが唯一の判断材料だが、同業各社ともデザインは旭日の図柄の軍国調で、「バンザイ」、「トーゴー」、「ミカサ」などというブランドだった。日露戦争の勝利を反映した国威高揚の命名で、国内はいざ知らず、外国では通用しない。国際社会では新参の、はるか東洋の小島で作られた怪しいラベルの缶詰に米国の消費者が手を出すだろうか。というわけで、勢い込んで輸出はしたものの、倉庫で品物は山積み。値引きをして処分したが、その相手先のアメリカの会社も大損をして責任を感じた支配人が自殺してしまった。何とも気の毒な話だが、今日、オイル・サーディンのブランドとしてお馴染みのあの髭の王様はノルウェー・スウェーデン王だったオスカル二世で、同じ頃(1902年)勅許により商標化され、こちらは長寿を誇っている。東郷元帥も王様には勝てない。御用達の称号は最高の品質保証で、日本の缶詰業界はブランドの印象操作を欧州に学ぶべきだった。
 伊勢湾でのイワシの漁獲も一定せず、石原の缶詰製造会社はとうとう解散に追い込まれるが、高﨑は敗因を考察、入れ物の製缶と缶詰製造を分離し、製缶事業を今日に続く東洋製缶へと発展させる。満州重工業開発総裁を経て、戦後は政界で活躍、日ソ漁業交渉や日中国交正常化に道を開いた、異能の経済人だった。
 その高﨑達之助は御木本幸吉とも親交があった。高﨑が水産講習所で同窓だった柳悦多(よしさわ)は大日本水産会幹事長だった柳楢悦の三男で、幸吉にとっては恩人の子息にあたり、鳥羽を訪れた時は「若さん、若さん」と手厚く持て成した。高﨑はその頃、幸吉の隣に住いしていたため、友人の悦多のお蔭を蒙って幸吉と話す機会を得たという。水産講習所出身の高﨑は志摩の真珠養殖場に発生する赤潮対策に助言を求められて、夜中、幸吉に起こされることもしばしば。当初は「この糞親爺」と思ったものの、その研究心に打たれて進んで協力するようになり、互いに打ち解けた。東洋水産の事業に失敗して後、メキシコの水産会社に就職するため渡米する高﨑に、幸吉は餞別として真珠のネクタイピンと500円を贈った。当時、大学卒の初任給が35円だから、相当な額だ。
 戦後、数十年ぶりに多徳を訪れた高﨑を幸吉は歓待した。再度、鳥羽を訪れた時、老齢の幸吉は山の上の住まいから下りてきて出迎えた。高﨑が恐縮すると、幸吉は「君が来た以上は天皇と同じだ」といって、手を引いて坂道を上がったという。

(2021年8月5日)

絵葉書に見る
「東洋水産会社」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高﨑達之助
『高﨑達之助集 上』より
(昭和40年)

高﨑の随筆
「御木本幸吉の偉さ」が
掲載された『中央公論』
(昭和29年)

 

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