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114. ハーフと半円  NEW!!

  御木本幸吉が最初に手にしたのは貝殻の内側に出来た半円真珠でした。真珠博物館をご覧になられた方はご存知の通りです。その後も真円真珠を目指して多くの人々が研究を続けることになるのですが、では、半分だけの真珠は評価されなかったのかといえば、そうではなかった。天然真珠の時代に半分に切断加工した真珠は、これも博物館の二階でご紹介しているようにハーフパールの名でカメオやエナメルの縁取りなどに用いられ、素材として普通に流通していました。
 『ザ・ブック・オブ・ザ・パール』で著者のG.F.クンツはハーフパールのグレードを三等級に分け、それぞれ小さな4番手から大きな30番手までの価格を示しています。たとえば第一等級の真珠の5番手は直径1.20ミリ(0.047インチ)、30番手は3.90ミリで、これを見ればハーフパールがどれくらいの評価で取引されていたかが一目瞭然です。
ここで1908年の第一等級の価格を見ると、5番手(1.20ミリ)100個で1.95ドル。20番手(2.90ミリ)は100個で61ドルとある。最大の30番手(3.90ミリ)は1884年の表で100個150ドル。つまり4ミリ弱のハーフパールが1個1.5ドルでした。それ以上の番手がないということは、これが当時流通していた最大クラスだったと考えられます(逆に直径1.2ミリのハーフパールがあったことの方が驚き)。
 さて、英虞湾の御木本真珠養殖場で明治31年12月に第一回浜揚げ。翌年3月、御木本幸吉は東京の弥左衛門町に出店して、半円真珠の普及と拡販に努めます。この頃の幸吉の行動が『穂積歌子日記』に記録されています。穂積歌子は澁澤栄一の長女で、東京帝国大学の法学教授穂積陳重の奥様です。穂積陳重は箕作佳吉の友人で、繋がりは容易に想像できますね。同書の明治32年10月2日の記述には「午前御木本孝(幸)吉養殖真珠持ち来る。箱共借りおきたり」、同月9日には「御木本来りたれば先日の真珠二個の内一個は返し、別に小四個購ひ増、金十二円遣したり」とあります。社史によればこの頃、御木本真珠店は半円真珠1個を2円に値付けしていたようですが、大きさにより価格に違いがあったのでしょう。ここで仮に小4個を2円×4個=8円に、「先日の」真珠を4円としてみれば合計12円になります。明治33年の同日記には2月28日の記述として「午前三(御)木本来る。養殖真珠大粒九個求めおく。深川阪谷等へ分つべしと思ふ。一個代九円、合計八十一円、内四十円渡し置く」とあり、大きいものはそれなりの価格設定であったことがわかります。
 当時の交換レートは1ドルが2円。4ミリ弱のハーフパール1個1.5ドルは日本円では3円ということになり、価格での優位性は明らかです。天然のハーフでは望めない5ミリ以上でも養殖なら可能で、たとえば、明治40年代に作られたとされる「桜」の帯留に用いられた6ミリの半円真珠は天然真珠のハーフパールでは望み得ないサイズでした。
 養殖半円真珠は覆輪で留めてしまうと天然のハーフパールとの違いが目立たず、価格の面からも20世紀初頭の比較的大衆的なジュエリーにはふさわしい素材として利用されました。日本養殖真珠の発展を考える上で、もう少し検討が加えられても良い課題です。
 (引用は穂積重行編『穂積歌子日記』みすず書房刊)

 

ハーフパールの価格表『ザ・ブック・オブ・ザ・パール』より

 

 

 

 

 

ハーフパールの価格表『ザ・ブック・オブ・ザ・パール』より(本文下に大きな表があります)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    「桜」の帯留

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